シリーズ「あおば子育て事情」は江口 寛さんの文です。彼は30年来の私・大貫の友人です。私の市政ファイル313号からの転載です。
「下の妹は、校舎の壁に寄り掛かって梅干しのたねをしゃぶっていたが、姉の姿を見ると、たねをぺっと吐き出して泣いた」(「字のないはがき」中学国語2年・光村図書)。
授業を終えた若い先生は、「疎開のつらさ、いや、疎開そのものを、うまく伝えられなかった」と、言う。両親が戦後世代の若い教師が、更に若い子どもたちに、戦争体験を伝承する時代になったと改めて思った。
先日、センター南駅に近い正覚寺を訪れた。ここは、戦争末期、子安国民学校の児童が集団疎開した所。記念碑『心のふる里ここにありき』(昭和48年12月建立)があり、疎開児童用に掘った古井戸が今も残り、崩れ落ちた防空壕跡には『隠れ宿ここにありき』の碑(平成3年8月建立)も建っている。
体験記によると、「早渕川の堤防を、橋の数をかぞえながら歩いて、八つめの橋が勝田橋、その右手の田畑の向こうに正覚寺の森が見えた。・・・はじめのころは、それぞれ環境の違う生徒が集団で寝起きするため、いじめやなぐりあいなどが起きた。あたりが暗くなり、静けさだけが増して来る夜は、耐えられない寂しさで、輝く星空を見上げてどうしょうもない気持ちに陥った。」
「先生、食事のおばさん二人、私達生徒で食事から食糧の買い出し、山から薪になる木を背負っての生活は今思えば本当に大変でした。・・・疎開してからみんな夜になると、星を見ては泣いていました。」と、あった。